Calendar
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< March 2024 >>
SELECTED ENTRIES
ARCHIVES
CATEGORIES
RECENT COMMENTS
RECENT TRACKBACK
LINKS
PROFILE
OTHERS
BlogPeople
旅音 〜旅と音の人生〜
キューバ | 旅音
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | - |
キューバ -che guevara(チェ・ゲバラ)-


革命戦士への道
1928年6月28日、アルゼンチンのロザリオ市に生まれる。
裕福な中産階級に生まれ、なに不自由の無い生活を送り、成績も優秀だったゲバラだが、幼い頃から持病のぜんそくに悩まされた。
成績は非常に優秀で数学と考古学が得意だったが、心理学や工学にも関心をもっていた。その知識の広さは学生の仲間内でも群を抜いていたとゆう。
祖父もぜんそくの持病があり、また母親がガンに冒され苦しむ姿を見て育ったゲバラは、1947年ブエノスアイレス医科大に進学し医師を志した。


モーターサイクル・ダイアリーズ
>映画モーターサイクルダイアリーズ
1951年、大学を1年間休学し友人の医学生グラナドスと共に、バイクに跨りラテンアメリカ諸国を訪ねる放浪の旅に出た。ゲバラはこの旅で、各地で貧困に喘ぐ人々やろくな設備も無い診療所を見て、ラテンアメリカの現実と世の中の矛盾に直面した。中でもハンセン氏病診療所の悲惨さは医学を志す彼には衝撃的な光景だった。
この旅がゲバラのその後の人生に大きな影響を与えた事はゆうまでもない。
大学に戻ったゲバラは、「アレルギー疾患について」と題した論文を発表し1953年に医学博士となった。
医者となったゲバラだが、当時のアルゼンチンはペロンの独裁政権であり、医師は強制的に軍医として徴兵されていた。

旅を共にした友人グラナドスがベネズエラのハンセン氏病療養所で働いていたことから、ゲバラも半ば亡命するがごとくアルゼンチンを脱出し、ベネズエラを目指した。
ラテンアメリカ諸国を渡り歩くゲバラは多くの亡命者と出会った。目的地を目前にしたエクアドルで出会ったリカルド・ローホは、ペロン政権に抵抗する市民連合で活動する若い弁護士だった。
当時、政治にさほど関心の無かったゲバラだが、根っからの冒険好きと旺盛な好奇心からローホーに誘われるままベネズエラ行の予定を変更しグアテマラに向かった。
彼の運命を変えた瞬間だった。

グアテマラではアルベンス大統領による農地改革が進もうとしていたが、アメリカが介入してこれを妨害した。アルベンスはアメリカを非難するが、大国の前にはあまりにも無力だった。やがてアルベンスは失脚し、グアテマラはアメリカの思うがままの状態となる。
ゲバラは大国が小国を抑圧して支配してゆく様子をまのあたりにして怒りを覚えた。そして、このままでは世界中の無力な国々が大国に食い潰されてしまう。
我々はこの不平等な世界を変えるため、戦わなくてはならない。・・・彼の中で革命の闘志に火がついた。


フィデル・カストロとの出会い
グアテマラでゲバラは、ペルーから亡命してきた女革命闘士イルダ・ガルディアと出会い恋に落ちた。
彼女がメキシコに渡るとゲバラもその後を追ってメキシコに密入国し、1954年に2人は結婚する。彼女はゲバラに革命家になるよう薦め、祖国での革命を画策するキューバからの亡命者たちと彼を引き合わせた。
この亡命キューバ人のリーダーが、あのフィデル・カストロである。
1955年、ゲバラ27歳、カストロ29歳。2人の運命の出会いだった。
1953年、ハバナ大学法学部出身の弁護士だったカストロは、弟のラウルとともに学生を率いてバチスタ政権に反旗を掲げ軍兵舎を襲撃して逮捕された。 一旦は投獄されたが恩赦により釈放されメキシコに亡命していた。


キューバ革命
1956年2月2日、82名のキューバ革命戦士を乗せたおんぼろヨット、グランマ号がメキシコから出航した。
キューバ東部の海岸に上陸した彼らは、事前に革命の動きを察知していたバチスタ政府軍に出迎えられ、激しい銃撃戦の末に多くの仲間を失った。
かろうじて残った12人の革命戦士たちは、決して諦めることはなかった。シエラ・マエストラの山中で次の攻撃の準備を整え、1959年1月、ついにバチスタ政権を倒し「キューバ革命」を成功させた。
革命の成功に貢献し、勇敢に戦ったゲバラは「キューバ革命の英雄」となり、キューバ国籍を得た。
革命後も1959年にキューバ国立銀行総裁に就任、その後も1961年工業相、1962年キューバ統一革命組織幹部会メンバーなどの要職を歴任し、経済と外交で重要な役割を果たした。


カストロとの訣別
1965年3月21日、ゲバラは突然キューバから姿を消した。やがて、カストロの元にゲバラからの手紙が届いた。
有名な「訣別の手紙」である。この手紙の中でゲバラは革命に賭ける強い信念を示した。

「世界の他の国が私のささやかな努力を求めている。キューバの指導者とゆう立場から、あなたが出来ない事も私ならやれる。同志よ、別れの時がきた。」
「勝利に向かって限りない前進を。祖国か死か。果てしない革命への情熱を込めて。」

二人の情熱的な革命家は同じ夢を共有しながらも、いずれは別れる運命にあった。なぜなら、キューバの未来の為の革命を誓うカストロに対して、ゲバラの追い求めるものは世界の平和とゆう壮大な規模のものだったからである。革命の為には命をもいとわない強い信念を持つ二人だったが、目指す最終到達点は全く異なっていた。

ゲバラにとってのキューバ革命は、自らの理想実現の通過点に過ぎなかったのだ。彼は、この革命の成功をラテンアメリカに波及させる事を考え、将来的には第三世界全体の反帝国主義闘争の原動力にすることを考えていたが、キューバ国民の熱烈な歓迎と市民権を得たことで、しばらくキューバにとどまっていたに過ぎない。
また、キューバ新政権において、カストロの方針に反して公然とソ連批判を行ったゲバラは、難しい立場にあった事も事実である。こうして、ゲバラは新たな戦場に向かい、再びゲリラ兵となって活動を始めた。


革命戦士ゲバラ
キューバを後にしたゲバラは、コンゴの反乱軍に加わり「アフリカ革命」に参加するが、思うような成果を挙げることなく惨敗した。
その後ボリビアに渡り、ラテンアメリカ解放の為の革命準備を始めた。
ボリビアはバリエントスが政権を掌握する軍事政権であったが、内部は分裂状態にありアメリカの軍事援助計画(MAP)によってかろうじて支えられていた
この時、ゲバラの革命を支援する者がいた。盟友カストロである。
二人は訣別後も密かに連絡を取り合い、カストロはゲバラの作戦を全面支援する為、ボリビアにリカルドやターニャといった秘密工作員を送りこんだ。

ゲバラはサンタクルスを流れるリオ・グランデの支流沿いにゲリラ基地をつくり、同時に首都ラバスに地下組織ネットワークを構築した。やがて革命に向けた壮絶なゲリラ戦が始まる。


ゲバラの最期
1967年10月7日夜、ユロ渓谷で野営していたゲバラら17人のゲリラ兵士は、ボリビア政府軍レンジャー部隊6個小隊に包囲され攻撃をうけた。
指揮官ゲバラは左足を負傷しながら応戦したが、抵抗は及ばず捕らえられた。捕まる際、ゲバラは敵兵士に、俺はゲバラだ!生け捕りにした方がおまえ達の手柄になるぞ!」と言ったとゆう。
捕虜となってもゲバラは、革命家としてのプライドを決して失わなかった。彼は、無礼な言葉を吐いたボリビア軍士官を殴りつけた。
1967年10月9日、捕虜となった翌日、小学校の教室に連れて行かれたゲバラは、そこで銃殺された。
ゲバラの最期の様子やその後の遺体の処置について、ボリビア政府は公表しなかった為、「ゲバラは壁を背にして床に座り、既に息遣いも弱々しかった。死んだゲバラは目を見開き、微笑すら浮かんでいた。」 「銃殺の為やってきた士官が震えて撃てない様子を見て、『撃て、恐れるな!』 と叫んだ。」 「パイプを右手で振りながら、落ち着いた不敵な態度で射殺された。」 など、 いろいろと語られた。
ゲバラ支持者の中には、「生存説」を訴える者さえいた。


30年後の帰還
1995年11月、ボリビアの退役軍人マリオ・バルガス元将軍は自らが知るゲバラの最期を米有力紙などに告白し、処刑後謎だったゲバラのその後が明らかになった。
1997年7月、キューバとアルゼンチンの合同調査団によって発見されたゲバラの遺骨は、ゲバラが”母なる国”といって愛したキューバに持ち帰られて、30年ぶりの無言の帰還を果たした。

帰国後一般に公開され、展示された遺骨を前にキューバ市民は、「生涯を世界平和に捧げた英雄」 「遺骨の入った木箱には偉大な歴史が詰まっている」 「純粋で無欲なロマンチスト」 「カストロは好き(Like)な人間、チェは愛(Love)すべき人間だ」 と口々に語り、改めてその死を悲しんだとゆう。

この頃のキューバは、経済的に大きく依存していた東欧・ソ連社会主義圏が崩壊し始め、革命30周年を前にカストロ態勢存亡の危機を迎えていた。
キューバ政府は市場経済の部分的導入、共産党一党体制内複数発想主義の原理に基づく民主化などの改革を行い、国家立て直しを図っていた。


10月8日開催された第5回共産党大会の壇上には、マルクス、レーニンの肖像と共にゲバラの肖像が飾られた。
カストロ国家評議会議長は、しばしばゲバラの肖像を仰ぎ見て感慨深げだったとゆう。

カストロはこの日の演説で、
「あらゆる改革を進めるが、社会主義は放棄しない。」
「闘いの行方は我々次第なのだ。」  
「人間は必ず死ぬ。しかし思想が存在する限り、革命家は生き続ける。」  
「チェの思い出が、チェの精神が、この党大会を導いてくれる。」  
「ソ連は崩壊したが、我々は絶対そうならない。」
「アメリカが世界一の強国になった。我々はどうするべきか。頭を下げるのか?いや、そんなことはできない。これまでキューバの独立と主権のために闘ってきた、ゲバラや多くの同志を裏切る事はしてはいけない。」
「国民の支持がなければ何も成し得ない事は、歴史が既に教えている。」
「祖国か死か! 社会主義か死か!」
この日の演説は6時間40分に渡ったたとゆう。

国内が不安定なそんな折、返還されたゲバラの遺骨は、キューバ市民に改革の頃の熱い思いを蘇らせ、愛国心を呼び戻した。
ゲバラは死して再び、キューバに多大な貢献をした。

ゲバラの遺骨は革命の同志フィデル・カストロの手で、キューバ中部サンタクララの霊廟に改めて埋葬された。
1997年10月17日首都ハバナで盛大な追悼式典が行われ、実に25万人の市民が集まってゲバラを偲んだ。
まさにカストロが言うように”革命家は死なず”である。


-----------------------------------------------------------------
今でもチェ・ゲバラは間違えなく英雄であることは
キューバに行けば感じざるを得ない。
要塞もお土産屋も、ハバナ市内、ゲバラで多い尽くされている。
誰もゲバラについて悪くいうものもいない。
ゲバラを感じるためにキューバに渡る外国人も少なくない。

これだけ世界中から愛されている社会主義ゲリラ革命家はいないだろう
これだけ世界のことを考え自分の意思を貫き通した人もいないと思う。




カストロとゲバラが作ったキューバは
アメリカの極度の経済制裁の為に経済が逼迫しているのは言うまでもないが
そんな中、教育や文化に力をいれすべての国民が菅生的な文化を持てるようにしようと努力している。
小学校は現在、20人学級で、教師の人数は人口比で見ると世界一。すべての教室にテレビを置いて、ベテラン教員がテレビで授業を行い、それをクラスの先生が補うというようなこともやっている。

また、幼稚園からコンピューターに触れられるような体制もとっている。

中学校は15人学級を実施。

大学は、現在50あるが、すべての国民が高等教育をうけられるように、すべての市町村に大学の分校を作っている。その数は722校。現在30万人が通っている。

乳幼児死亡率は日本には及ばないが、出生数1000人あたり6・3人で、アメリカよりも少なくなった。平均寿命も75歳で第3世界のトップになっている。

こうした達成も医療に力を入れてきた結果。医者の数は7万人。
日本は22万人と聞いているが、人口は10分の1だから、人口比なら日本の3倍の医師数ということになる。

外国への支援に医者が16000人近く行っており、WHOの2000人よりはるかに多い。外国からも17000人がキューバに留学に来ている。
これらの人も授業料は無料になっている。


アメリカもなしえなかったことを
強い意志を持ったゲバラとカストロはやり遂げた。


| キューバ | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
キューバ -casa de la musica(カサデラムシカ)-
キューバと音楽はきってもきれないくらい
国民のなかに浸透している。

ランチタイムになれば
そこら中の町中の食堂からは
ライブの音楽が流れ
そして
カリブの風と太陽を浴びながらランチを取る。

現在ではアメリカによる経済制裁を受け、
過去にもスペインの植民地支配を受け
決して恵まれた歴史とは言えなかった
このキューバの地で
人々が輝いているのは
音楽のおかげであることを実感する。

音楽のおかげでいまのキューバがある。

そんなキューバでもっとも有名なライブハウス
casa de la musica(カサデラムシカ)は
今のキューバを集約したような場所に他ならない

この音楽と、この国民がいれば、
キューバは明るさを忘れずに
今後もあり続けると確信した。

| キューバ | 18:47 | comments(0) | trackbacks(1) |
世界遺産-オールド・ハバナとその要塞群(キューバ)-
カリブ海に浮かぶ島キューバのハバナの旧市街は、スペイン統治時代に作られた。
アメリカの力によってスペインから独立を果たし、その後は世界でも指折りのバカンスの場となり、多くの観光客や大富豪でにぎわうことになる。
”経済大国による経済の仕組みを利用した植民地化”であることに気づいたキューバはチェ・ゲバラとともに ”自由になるために” 社会主義革命、キューバ革命を起こし合衆国をはじめとした資本は全て撤退した。

このときにハバナの時間は止まり、街は植民地時代のスペインコロニアル様式と1950年代のアメリカのジャズとキャバレーとアメ車の文化が入り混じった状態のまま今に続く。
いろいろと負の面も多いとは思うが文化の混血は時にとても美しいものを生みだす。ハバナ旧市街は本当に美しい。キューバ人もこの街を心から愛している。

-----------------------------------------------------------------
キューバは日本から見れば
サルサにチェ・ゲバラとカストロ、野球にカリブ海の国にしか見えない
どんな人が住んでいて、どんな生活を送っているのか
“アメリカのない生活”
世界を探してもここまで“ない”国はないだろう。
マクドナルドはもちろんスターバックス、アメリカ車(50〜60年代のアメ車はたくさん走ってる)、マルボロにコーラそして2004年12月現在ではアメリカドルの流通も一切禁止している。
要するに物がない。
ただ物がないことを感じさせないくらい
キューバ人は明るい
そんな笑顔に救われたような感じがする。
キューバはそんな国だ。


| キューバ | 02:53 | comments(0) | trackbacks(1) |